100回倒れても、起き上がればいいんだ!(ニック・ボイチチ)
神戸で行われたラブソナタでのニック・ボイチチのビデオです。
彼は両手両足がなく、鶏のような小さな足と指があるだけ。
このような境遇に生まれた彼は人生をのろいますが、ある時神に愛されていると気がつくのです。
それから彼は各地を回り、沢山の子供達を励ましています。
「100回倒れても、起き上がればいいんだ!」静かに自らの身体を使って子供達に伝える姿は、何度見ても感動があふれます。
http://www.youtube.com/watch?v=Ak60leHW5QI&feature=related
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彼は両手両足がなく、鶏のような小さな足と指があるだけ。
このような境遇に生まれた彼は人生をのろいますが、ある時神に愛されていると気がつくのです。
それから彼は各地を回り、沢山の子供達を励ましています。
「100回倒れても、起き上がればいいんだ!」静かに自らの身体を使って子供達に伝える姿は、何度見ても感動があふれます。
http://www.youtube.com/watch?v=Ak60leHW5QI&feature=related
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福島原発はひじょうに危険な状態なのに東京電力はそれをひたすら隠しています。
下記のサイトをご覧ください。(2時間4分の動画です)
タイトル:
【緊急報告】広瀬隆/広河隆一 「福島原発で何が起こっているか?-現地報告と『原発震災』の真実」 | OurPlanet-TV:特定非営利活動法人 アワープラネット・ティービー
URL:
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/926
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福島原発事故について元原子炉格納容器設計者 後藤政志さんのはなし
下記のサイトをごらんください。50分間の動画です。
サイト名:
Ustream.tv: ユーザー CNIC_JAPAN: 3/17 緊急院内集会 福島原発の現状をどう見るか, Recorded on 2011/03/17 後藤政志さん(東芝・元原子炉格納容器設計者、工学博士)の解説詳細配布資料は http://bit.ly/hFLakW 撮影配信協力 JUNS株式会社.
URL:
http://www.ustream.tv/recorded/13371747
この動画の中で後藤政志さんは、「福島原発事故の危険レベルは、政府は[4]と言っているが、私はチェルノブイリ事故の[7]直前の[6.5]だと思う」
旨の発言をしておられます。
サイト名:
Ustream.tv: ユーザー CNIC_JAPAN: 3/17 緊急院内集会 福島原発の現状をどう見るか, Recorded on 2011/03/17 後藤政志さん(東芝・元原子炉格納容器設計者、工学博士)の解説詳細配布資料は http://bit.ly/hFLakW 撮影配信協力 JUNS株式会社.
URL:
http://www.ustream.tv/recorded/13371747
この動画の中で後藤政志さんは、「福島原発事故の危険レベルは、政府は[4]と言っているが、私はチェルノブイリ事故の[7]直前の[6.5]だと思う」
旨の発言をしておられます。
学問に王道あり-寄り道:三日坊主とは三日でバイバイ!
ジョギング、日記、筋トレ、通信添削、問題集をやり切る、などなど、三日坊主でおわっちまうことはたくさんありますね。
なぜか?
それは、これらが、孤独な戦い(?)であることが大きな原因です。
では、孤独でなくすればいいわけで、サポーターをつくって、応援してもらったり、激励してもらえば、つづく率はぐんとアップするわけ。
これをTwitterを利用してやれるようにいたします、というご親切サイトがあるんです!
それは、
タイトル:あなたの「続ける」をTwitterでサポート~Sapota.jp(サポタ)
です。
ご用とお急ぎでない方は、ご一見、ご一見!
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10/2 学問に王道あり-3
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学問の王道に反する思い込み-3として、今回は 「雑念は排除しなければならない」 という思い込みをとりあげてみよう。 勉強中に雑念が浮かんで勉強に集中できなくて困った経験のない方はおそらくいらっしゃらないでありましょうから、「雑念は排除しなければならない」という当然のことがなぜ「学問の王道に反する思い込み」なのか、不審に思われるでありましょう。 もちろん、勉強中の雑念はないほうがよいにきまっている。 しかし、この雑念という奴は、そう簡単に排除できるものではないことは、聡明なる読者様はよくおわかりのことであろう。 雑念を排除するために、人々はいかに苦闘してきたことか、そして現在も苦闘していることか。 雑念排除苦闘の代表選手は禅僧の方々ではないだろうか。 禅の目的は心の平安を得ることであるが、そのためには雑念排除は大きなウエイトを占めるものであろう。 長時間の苦しい座禅、あるいは寒中に身も凍る滝に打たれながら一心不乱に(他人にはそう見える)経を唱えたり、と厳しい修行をおこなっておられるわけであるが、成功率はいかがなものであろうか。 なかなか成功しないがゆえに厳しい修行に走らざるをえない一面があるのではないだろうか? ことほど左様に雑念排除はむずかしい。 人間には百八つの煩悩があるそうで、それらが入れ替わり立ち代わり意識上に雑念となって現れ、私たちを悩ませる。 俗人たる我々は、毎年年末になると、除夜の鐘のありがたい音色を聴くことにより、それら煩悩を削除して新年をむかえようという甘っちょろくもむなしい思いにかられるのも無理はない。 では、どうしたらよいか? 雑念を目の仇にしてなにがなんでも排除しようとするのではなく、「雑念とともに生きる」ようにするしか仕方がない。 ひらたくいえば、雑念排除を「あきらめなさい」「ギブアップしなさい」ということだ。 世の成功者たちがよく言う「ネバー・ギブアップ!」という素晴らしくも罪深いコトバに洗脳されている現代人の方々は、「あきらめる、とかギブアップなんてとんでもない。そんなことでは問題は解決しない。」と反論なさるでありましょう。 しかししかし、娑婆(*)で通用する考え方(ネバー・ギブアップ)が、悩んだり愛したりすることの舞台である心の世界でも通用するとはいえない。 異なる世界でも同じ考え方が通用すると思うのは、それこそまちがった思い込みである。 (*)しゃば:刑務所などの外の自由な世界。現実の人間世界。 広大な宇宙空間の世界においては、光速に近いスピードで飛ぶ物体では、時間の進み方が地球上の進み方より遅れるそうである。 すなわち、地球から出発した高速宇宙船が地球上の時計で3年後に帰還したとき、宇宙船の乗組員は1年しか歳をとっていないということが生じる。 これは、地球という狭小な世界では通用する「時間の進み方は何物についても同一」という考え方が、広大な宇宙空間の世界では通用しないことを意味する。 心の世界は、娑婆の世界とは異なる。 心の世界の問題には、心の世界で通用する考え方をしなければならない。 「郷に入れば郷にしたがえ」というではないか。 愛する人間や愛する動物と死別した直後、人は愛する者の死を理性ではわかっていても、心はそれを現実のものとして受け入れることができず、嘆き悲しむだけでなく、苦しみ悩む。 しかし、多くの場合、時間の経過とともに、「愛した者とはもう会うことができないのだ」と「あきらめ」の心境に達し、そのとき心は愛する者の死を現実のものとして受け入れることができるようになり、悲しさはあっても、苦しみ悩むことはなくなる。 このように、心の世界の問題解決には、「あきらめる」ことも有効なのであり、立派に通用するのである。 というわけで、勉強中に雑念があらわれたら、それを排除するのはあきらめて、たとえば、「雑念くん、よく来たね。」てな具合に雑念くんとあそんでやり、あそび飽きたら、また勉強にもどればよい、という程度に受け止めてやればよろしいと思う。 このような態度で雑念に接するすることの副産物として、「自分は雑念を消せないダメなやつだ。」と自分を責めることがなくなるので、雑念苦と自責苦の二重の苦しさから脱出することができる。 さらに、どうせ雑念するのなら、「これをマスターしたら、クラスでトップになれる。」という類の雑念にしていただき、雑念を味方につけて勉強の能率をあげて、学問の王道を歩んでいただくことを提案申しあげる次第である。 ところで、誤解しないでいただきたいことがある。 上記で提唱したことを、「雑念は気にしなければよい、と同じ」 と解釈しないでいただきたい。 「雑念は気にしなければよい」というのは、雑念を念頭から追い出すこと、すなわち雑念を排除することを目的とする考え方であって、上記で提唱した「雑念排除をあきらめる。雑念とともに生きる。」という考え方とは根本的に異なる。 そして、「気にしないようにしよう」と思えば思うほど、気になってしまうのが人間の心なのだ。 心の操縦は自転車の操縦とは異なる。 右にハンドルを切っても、心は右へ行かないことのほうが多いのである。 (参考文献) 「新自律訓練法」 河野良和 著 五柳書院 (蛇足) 弱小な動物では、何をしていても「自分を襲う者はいないか?」という雑念があるのであって(交尾のときは例外かもしれないが)、これがなかったら、その種はたちまち絶滅するでありましょう。 つまり、雑念は種の存続のために必要不可欠なものであって、動物の本能に属するものではないかと愚輩は愚考いたすのである。 そう考えれば、「雑念とともに生きる」ことが受け入れやすくなるのではないかと思いますが、いかが? (補足) エラそうなことを申しあげたが、小生は心理学者でも禅僧でもなく、一介の塾教師にすぎないので、間違った記述があるかもしれない。 間違いに気づかれたら、遠慮なく指摘していただきたい。 ありがたく拝読させていただく所存である。 前回も申しあげたとおり、誤答の答案からこそ学ぶべきであるから。 中学生,高校生の数学の勉強,学習,受験
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9/25 学問に王道あり-2
__ | 前回(9/18)は、私たちの無意識層にへばりついて勉強へのとりくみ方に影響をおよぼす思い込みのトップバッターとして、「勉強の時間は多ければ多いほどよい」というものを取り上げたが、大事なことを書き忘れたので補足させていただく。 それは、上記の思い込みを捨てていただき、すなわち勉強時間を意識するのをやめていただき、そのかわり、「今やっている勉強で、マスターしたいのは何か?」と、「そのときの目的」をハッキリ意識していただきたい、ということなのである。 目的を意識することで、勉強は自然に効率的になり、学問の王道に近づくでありましょう。 では、思い込み-2のおはなしをさせていただく。 思い込み-2は、「究極の目的はテストでよい点をとることであるから、ふだんの勉強でも正解を出すことが最も大事」、つまり「結果がすべて」という思い込みである。 勉強の究極の目的はテストでよい点をとることだけではないよ、などとキレイごとを言うつもりはない。 そんなことを言っても、努力してもよい点がとれずに悩んでいる方には何の助けにもならない。 この思い込みのマズイ点は、正解を喜ぶところまではよいのだが、誤答を忌み嫌い、これを無視して反省材料としないことになり易いことである。 「失敗は発明の母」とか、「失敗に学べ」ということばを持ち出すまでもなく、二度とおなじ間違いを犯さないために、誤答した原因を探り、自分は何を間違えたか、あるいは何を知らなかったかを明らかにして、知識を補強しておくべきであり、そうすることで実力は強化される。 正解の答案から学ぶことは何もない。 ま、あたりまえのことで、あらためて申しあげるのも気がひけるが、この駄文をお読みになってハッと気がついていただく方がひとりでもおられれば幸いでアリマス。 中学生,高校生の数学の勉強,学習,受験 | __ |
9/18 学問に王道あり-1
__ | 「学問に王道なし」 とは有名なことばだが、このことばから、「学問すなわち勉強とは、努力を要求されるもの、つらいもの。」というイメージが連想させられる。 このイメージにマインドコントロールされて知らず知らずのうちに勉強嫌いになってしまった方もおられるのではないだろうか。 このように見てみると、このことばはかなり罪深い。 これ以上勉強嫌いさんをふやさないために、そして、従来からの勉強嫌いさんを重症化させないために、あえてこのことばに反抗して、 「学問に王道あり」 とご提言申しあげる。 ご提言申しあげるからには、それなりの根拠がなければならない。 根拠は、勉強にも省エネなやり方、すなわち、より少ない努力で同じ効果をあげる方法やとりくみ方がある、ということである。 たとえば、我田引水であるが、弊ブログ「05/5/15 効果的な一夜づけ暗記法」に、暗記ものは短時間にこま切れにして他の教科とかわりばんこにやり、寝る直前に暗記ものの総復習をする、という効率的な方法をご紹介している。 このような方法論としての勉テク(変な造語をして叱られそうだが)だけでなく、私たちの無意識層にへばりついて勉強へのとりくみ方に影響をおよぼす思い込みにもスポットをあててみようと思う。 その1は、学問に王道なし、を地でいく思い込みで、勉強はひたすら努力とばかり、「勉強の時間は多ければ多いほどよい」というものである。 人間はひとつのことに集中できる時間に限りがあり、その時間内に集中して勉強するほうが、だらだらと長時間やるよりも効果的なのはちょっと考えてみればすぐわかることなのだが、この思い込みはけっこう多い。 さらにこの思い込みのよろしくない点は、自責の念にかられ易いことである。 3時間勉強するつもりが2時間やったら頭が痛くなってやめてしまった場合、 「勉強時間が1時間も少なくなってしまった。これではだめだ。私はなんて意志薄弱な人間なんだろう。」 と自分を責めてしまいがちになる。 そんなくだらんことで自分を責めたら、自分がかわいそうだよ。 自分というものは、この世界でかけがえのない大事な存在ではないだろうか。 (自分よりヨン様のほうが大事、と思っていらっしゃる方もおられるようだが) その大事な自分にかわいそうな思いをさせるような思い込みはさっさと捨てていただきたい、と思う。 今回はここまで。 思い込み-その2は次回に。 中学生,高校生の数学の勉強,学習,受験 | __ |
9/10 数学・別解発見ゲーム
__ | 弊ブログ 8/20、8/27 で、ひとつの問題に対していろいろな解答があることを紹介させていただいた。 数学では、スタンダードな解答のほかに、いわゆる別解が存在することが多い。 ところで、教科書では、本文の記述としては、例題とその模範解答を示し、そのあとに似たような問題を解いてもらうようになっている。 学校や塾の授業もこのようなやり方が多いのではないだろうか。 つまり、「問題を解く」ことは「与えられた方法を使いこなすための訓練」になっている。 たしかに「習うより慣れよ」のとおり、計算問題や単に方程式を解く問題などでは訓練は欠かせないので、その限りでは教科書のやり方は正しい。 しかし&しかし、このようなことばかりやらされていると(ご自分で章末問題や問題集を積極的におやりの方は別にして)、「数学の勉強とは、与えられた方法を使って問題を解くことだ。」と思ってしまう生徒さんが現れてもふしぎはない。 現に弊塾(ブログ上でなくて実在の塾)でも、ちょっと見慣れない問題を出すと、即座に「解き方を教わっていないからできない。」と言う生徒さんにたびたび出くわす。 このような生徒さんにたいして、「そんなことでは困る。だいたい数学とは創造的な学問であって、自分のアタマで考えて問題を解決していくものなんだよ。」と言ってみても、ほとんどの場合(言い方は悪いが)「馬の耳に念仏」である。 なぜなら、上記のような生徒さんは数学がキライなのだ。 早いとこ問題の解き方を教わって、クソ面白くもない問題をてっとり早くかたづけてセイセイしたいのだ。 「自分のアタマで考えて問題を解決していく」なんてシンドイことはマッピラご免なのである。 では何故この生徒さんは数学嫌いなのか? その理由のひとつは、はじめに書いた教育方法の結果、「数学の勉強とは、与えられた方法を使って問題を解くことだ。」とこの生徒さんが思ってしまったことにあると思う。 「与えられた方法を使って問題を解く」 こんなことがたのしいだろうか? 単純作業がキライな人間、他人から指図されることがキライな人間ほど たのしくないと思う。 たのしくないことはキライになって当然である。 こういうことにならない一つの方法として、我田引水だが、別解を考えることをおすすめ申しあげる。 教科書に書いてある解答、先生が教えてくれた解答 以外の解答はないか? ご自分の考えだけでは思いつかない場合は、問題集や参考書をひっくり返して似たような問題の解答を見てみるのもよい。 それでは自分のアタマで考えることにならないじゃん? と反論なさるかもしれないが、目的のためには手段をえらばないのが別解発見の奥義なのである。 たとえば弊ブログ 8/20 の最後の別解では、長さが等しいことを証明する定番手段である三角形の合同を捨てて、円周角で攻めている。 たとえとしてはちょっとズレた感じはするが、要は、一般的な考え方から頭脳を解放してやり、好き勝手、やりたい放題にやっていただきたい ということなのだ。 お友達と別解発見を競って飲用液体を賭けるとかゲーム化するのもおもしろいかもしれない。 まあ、それも好きにおやりください。 中学生,高校生の数学の勉強,学習,受験
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