勉強もたまには教える数学塾 -4ページ目
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勉強と「メンツ」


勉強を教えない通信教育受験塾の捨面子です。

「メンツ(面子)」とは、広辞苑によれば、もともとは中国語であって「面目」とか「体面」のことである。(「麻雀の競技者」というイミもあるが。)
「体面」とは、「世間に対する体裁」とある。
三省堂の例解国語辞典によれば、
「体面」とは、「自分が、地位や立場にふさわしいものとして人の目にうつっているかどうか、という意識」とある。

ここでは、これらをまとめて、「メンツ」とは、
「他人が自分を見て判定すると思われる、想像上の自分の立派さの格付け。」
ということにする。

このメンツなるものへのこだわりがひどくなると、
「他人より上位に格付けされたい。」
となり、さらにひどくなると、
「何が何でも他人より上位に格付けされなければ気がすまない。自分に上位格付けを獲得するだけの能力がないならば、他人を引きずりおろしてでも。」
となるようである。

まえおきはこのくらいにして、本題に入らせていただく。

愚輩は、学習塾で算数と数学を教えているが、あることに気がついた。
それは、例外はあるが、「勉強ができる生徒は、メンツに対するこだわり が小さい。」のである。
(この逆、すなわち「メンツに対するこだわりが小さい生徒は、かならず勉強ができる。」は、成り立たない。)

なぜなのだろうか?

「勉強ができる」ためには、頭のよさ、集中力、ものごとを深く考えてその本質を見抜く力 などが要求される。

メンツに対するこだわりが非常に大きい生徒-「メンツ君」と呼ぶことにする-は、塾など、自分以外の全メンバーが自分を認識できる程度の大きさの集団の中にいるときは、自分のメンツを上げること、メンツをつぶされないこと、につねに注意をはらって神経をぴりぴりさせているので、勉強に集中することできない。

たとえば、問題が3問出題されると、他の生徒がやっと第1問をおわったころ、(彼も同じか、または第1問の途中でもたついているのに)第3問について私に質問をしたり、あるいは、誰かが発言したことに対して、それを批判したり、発言者の一歩先をいくようなことを言ったりするのだ。

本題からそれるが、上記の「発言者の一歩先をいくようなこと」の内容には、うそが多い。
うそをついてでも己のメンツを上げたいのだ。
一般に、うそつきは、多くの場合、己のメンツを上げたいがためにうそを言う、のではないだろうか?

上記のように、メンツ君は、勉強ができるための条件の一つである「集中力」に欠ける。

また、メンツ君は、己のメンツを上げることが人生の目的のひとつになっていて、それが最優先されるので、たとえば、あることがらAについて討議をする場合、Aについてちょっと気がきいた意見を言って己のメンツが上がれば、それで彼の目的は達成され、その瞬間、彼のAについての思考回路はOFFになる。

なお、メンツ君のAについての意見は、ほとんど例外なく枝葉末節に属するものであり、Aの本質には触れていない。
彼は、その意見によってメンツが上がりさえすればよいのだから、Aの本質に触れようが触れまいが、そんなことはどうでもよいのだ。
彼にしてみれば、本質を探求するというシンドイことをしても、それにペイするだけのメンツ上昇が得られるとはかぎらないので、やりたくないのだ。

こんなことをしょっちゅうやっているので、彼は、勉強ができるための条件である「ものごとを深く考えてその本質を見抜くこと」がますますできなくなっていく。

というわけで、メンツ君は勉強ができるようにはならない。

彼のようにメンツへのこだわりが大きい生徒は稀少であるが、メンツへのこだわりが大きい生徒には、程度の差こそあれ、メンツ君とおなじ傾向がある。
そして、彼らは、わずかな例外を除いて、「勉強ができる」という部類に属さない。

したがって、勉強ができる生徒は、メンツへのこだわりが小さい生徒のなかから生じてくることになる。


以上が愚輩の愚考であるが、教育心理学などまったくかじったことがない愚輩(脱サラの塾講師)が経験のなかから得た経験則にすぎない。
また、怠慢にも、数値データもない。

もし、心理学に通じた方のご批判、ご教示をいただけたら、これに勝る幸いはない。
メンツへのこだわりを捨てて、拝聴させていただく。


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今日のよしなしごとは以上であります。
次回は、スポーツ選手とメンツの関係について書かせていただこうと思っている。
(勉強を教えない通信教育受験塾塾長)

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