10/2 学問に王道あり-3 | 勉強もたまには教える数学塾

10/2 学問に王道あり-3

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学問の王道に反する思い込み-3として、今回は
「雑念は排除しなければならない」
という思い込みをとりあげてみよう。

勉強中に雑念が浮かんで勉強に集中できなくて困った経験のない方はおそらくいらっしゃらないでありましょうから、「雑念は排除しなければならない」という当然のことがなぜ「学問の王道に反する思い込み」なのか、不審に思われるでありましょう。

もちろん、勉強中の雑念はないほうがよいにきまっている。
しかし、この雑念という奴は、そう簡単に排除できるものではないことは、聡明なる読者様はよくおわかりのことであろう。

雑念を排除するために、人々はいかに苦闘してきたことか、そして現在も苦闘していることか。

雑念排除苦闘の代表選手は禅僧の方々ではないだろうか。
禅の目的は心の平安を得ることであるが、そのためには雑念排除は大きなウエイトを占めるものであろう。
長時間の苦しい座禅、あるいは寒中に身も凍る滝に打たれながら一心不乱に(他人にはそう見える)経を唱えたり、と厳しい修行をおこなっておられるわけであるが、成功率はいかがなものであろうか。
なかなか成功しないがゆえに厳しい修行に走らざるをえない一面があるのではないだろうか?

ことほど左様に雑念排除はむずかしい。

人間には百八つの煩悩があるそうで、それらが入れ替わり立ち代わり意識上に雑念となって現れ、私たちを悩ませる。
俗人たる我々は、毎年年末になると、除夜の鐘のありがたい音色を聴くことにより、それら煩悩を削除して新年をむかえようという甘っちょろくもむなしい思いにかられるのも無理はない。

では、どうしたらよいか?

雑念を目の仇にしてなにがなんでも排除しようとするのではなく、「雑念とともに生きる」ようにするしか仕方がない。

ひらたくいえば、雑念排除を「あきらめなさい」「ギブアップしなさい」ということだ。
世の成功者たちがよく言う「ネバー・ギブアップ!」という素晴らしくも罪深いコトバに洗脳されている現代人の方々は、「あきらめる、とかギブアップなんてとんでもない。そんなことでは問題は解決しない。」と反論なさるでありましょう。

しかししかし、娑婆(*)で通用する考え方(ネバー・ギブアップ)が、悩んだり愛したりすることの舞台である心の世界でも通用するとはいえない。
異なる世界でも同じ考え方が通用すると思うのは、それこそまちがった思い込みである。
(*)しゃば:刑務所などの外の自由な世界。現実の人間世界。

広大な宇宙空間の世界においては、光速に近いスピードで飛ぶ物体では、時間の進み方が地球上の進み方より遅れるそうである。
すなわち、地球から出発した高速宇宙船が地球上の時計で3年後に帰還したとき、宇宙船の乗組員は1年しか歳をとっていないということが生じる。
これは、地球という狭小な世界では通用する「時間の進み方は何物についても同一」という考え方が、広大な宇宙空間の世界では通用しないことを意味する。

心の世界は、娑婆の世界とは異なる。
心の世界の問題には、心の世界で通用する考え方をしなければならない。
「郷に入れば郷にしたがえ」というではないか。

愛する人間や愛する動物と死別した直後、人は愛する者の死を理性ではわかっていても、心はそれを現実のものとして受け入れることができず、嘆き悲しむだけでなく、苦しみ悩む。
しかし、多くの場合、時間の経過とともに、「愛した者とはもう会うことができないのだ」と「あきらめ」の心境に達し、そのとき心は愛する者の死を現実のものとして受け入れることができるようになり、悲しさはあっても、苦しみ悩むことはなくなる。

このように、心の世界の問題解決には、「あきらめる」ことも有効なのであり、立派に通用するのである。

というわけで、勉強中に雑念があらわれたら、それを排除するのはあきらめて、たとえば、「雑念くん、よく来たね。」てな具合に雑念くんとあそんでやり、あそび飽きたら、また勉強にもどればよい、という程度に受け止めてやればよろしいと思う。

このような態度で雑念に接するすることの副産物として、「自分は雑念を消せないダメなやつだ。」と自分を責めることがなくなるので、雑念苦と自責苦の二重の苦しさから脱出することができる。

さらに、どうせ雑念するのなら、「これをマスターしたら、クラスでトップになれる。」という類の雑念にしていただき、雑念を味方につけて勉強の能率をあげて、学問の王道を歩んでいただくことを提案申しあげる次第である。

ところで、誤解しないでいただきたいことがある。
上記で提唱したことを、「雑念は気にしなければよい、と同じ」 と解釈しないでいただきたい。

「雑念は気にしなければよい」というのは、雑念を念頭から追い出すこと、すなわち雑念を排除することを目的とする考え方であって、上記で提唱した「雑念排除をあきらめる。雑念とともに生きる。」という考え方とは根本的に異なる。

そして、「気にしないようにしよう」と思えば思うほど、気になってしまうのが人間の心なのだ。
心の操縦は自転車の操縦とは異なる。
右にハンドルを切っても、心は右へ行かないことのほうが多いのである。

(参考文献)
「新自律訓練法」 河野良和 著 五柳書院

(蛇足)
弱小な動物では、何をしていても「自分を襲う者はいないか?」という雑念があるのであって(交尾のときは例外かもしれないが)、これがなかったら、その種はたちまち絶滅するでありましょう。
つまり、雑念は種の存続のために必要不可欠なものであって、動物の本能に属するものではないかと愚輩は愚考いたすのである。
そう考えれば、「雑念とともに生きる」ことが受け入れやすくなるのではないかと思いますが、いかが?


(補足)
エラそうなことを申しあげたが、小生は心理学者でも禅僧でもなく、一介の塾教師にすぎないので、間違った記述があるかもしれない。
間違いに気づかれたら、遠慮なく指摘していただきたい。 ありがたく拝読させていただく所存である。
前回も申しあげたとおり、誤答の答案からこそ学ぶべきであるから。


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